水の星、世界を手に入れる男 第01話 王子エルバート


 第二王子エルバートは自室で寝そべっていた。
 着用しているのは簡素な衣服だけ。生地こそ高級なものを使っているが、その見た目は、平民が着ていてもおかしくないほど飾り気がない。
 部屋に籠もっている時に限らず、城内を歩き回る際も、エルバートは同じような格好をしていた。

 質素倹約を旨としているわけではない。むしろ彼は贅沢を好む。
 毎日の食事は豪勢極まりなく、それについて文句を言ったりはしない。広々として眺めの良い自室に至っては、自分から要望を出して与えてもらったほどである。
 他の王侯貴族と同じく、豊かな生活を享受することに抵抗はない。

 ただ、服装に関してだけは別だった。
 金の掛かっている料理は、舌を満足させるのに必要だし、快適な部屋は、心に余裕を持たせてくれる。
 一方、華美な装飾を施された衣装は、大袈裟なだけで利点がない。せいぜいが、見栄えをわずかによくする程度。無駄なものだ。
 ある日、突然そのような考えに行き着いたエルバートは、以来、常に身軽な格好で通すことにした。

 深く考えた末のことではない。
 単なる思い付きであることは本人も理解していた。
 周りがどのように捉えるのかもおおよそ察していたが、意に介することはなかった。

 気紛れにして、意固地。
 過去の似たような事例から、息子がそういう男であることを承知していた国王は、何度か苦言を呈しただけで、それ以上は咎めようとしなかった。
 どれだけ諭したところで意味がないのだということは、王宮の誰もが知っていた。
 エルバートは第二王子だが、彼を王位後継者候補として見る者はほとんど居なかった。

「よろしいのですか? いつまでも休んでいて」
 椅子に腰掛けている伯爵令嬢が、鏡と向かい合ったまま、長い金髪に櫛を通しながら声を掛けてきた。
「まだ大丈夫だろ。大丈夫じゃなくなってきたら誰かが呼びに来るだろうし」
 寝転んでいた第二王子エルバートは、そう言いながら頬杖をつき、令嬢の横顔を見つめた。
 つい先程まで喘いでいた女とは別人のようだ、とエルバートは思った。
 丁寧に髪の手入れをする彼女の仕草は、世の中の汚れなど何も知らぬ乙女を連想させる。

 オリヴィア・エアハート。伯爵家の娘。
 どれほど血筋の良い女でも、身体を重ねているうちに、慎みのない一面を露呈してしまうものだが、オリヴィアは違った。
 いくら激しく抱かれても、貴族令嬢としての気品を失わない。何度 繰り返してもそれが変わることはなかった。
 自尊心の高さゆえか、行為の最中も決して隙を見せない。
 ある種の男は、気高い女を組み敷くことに、肉体的な快楽以上の価値を見い出す。
 エルバートが彼女を寵愛する理由のひとつはそこにあった。

 オリヴィアは髪を梳かしつつ振り向いた。
「軍議は今頃 揉めているはずですわ。海戦か、篭城か。どちらを選ぶにしろ、我が王国の命運は尽きかけていると言えます」
「父上と兄上が不在の時に攻められるだなんて、面倒なことになっちまったよなぁ」
「だからこそでしょう、隣国からすれば」
「そりゃ分かってるけどさ。やられた方からしてみれば、ちょっと待てよって言いたくなるだろ」
「お気持ちは分からなくもありませんけれど、今は、国王陛下の代理として国を守る立場にあるのですから、そろそろ起きた方がよろしいのではないかと」
「どうせ、すぐ軍議に引っ張り出されるんだから、そん時まではゆっくりさせてくれ」
 エルバートは寝台から動こうとしない。

「……分かりましたわ」
 言葉とは裏腹にオリヴィアは呆れていた。
 これまでは、有能な第一王子が居たおかげで、第二王子のエルバートがどれほど遊び呆けていようと、大きな問題はなかった。
 今は違う。父も兄も遠征に出ている。当分は戻って来られない。エルバートが最高責任者として侵略軍に対処するしかない。
 だというのに、この期に及んで怠けることしか考えないとは……。

 優秀な兄と比較され続けてきたせいで、真面目に物事と向き合うことが嫌になってしまったのだろう、とオリヴィアは見ていた。
 本気を出さなければ自分の器を知らなくて済む。手を抜くことによって尊厳を守っているのだ。
 自分が彼の立場ならば、実力を示して周囲を見返してやるところだが、その能力がなければどうしようもない。
 しかしエルバートに同情する気は全くなかった。
 一国の王子として小さくない権力を持っている以上、相応の責務がある。そこから逃げていて、何のための王侯貴族であろう。
 不敬と分かっていながらも、オリヴィアはそう思わざるを得なかった。

 エアハート伯爵家は、オリヴィアが生まれる直前に没落した。
 権力闘争に敗れた結果として、身に覚えのない罪に問われ、財産と領地のほとんどを失った。
 以前のエアハート家は複数の島を所有していた。うちひとつは国内有数の人口を誇っていた。
 ところが今や、寂れた漁村しかない孤島のみを領地としている。
 エアハート家は、上から数えて何番目かという大貴族から一転して、庶民と変わらぬ生活をするような貧乏貴族となった。

 通常、カーライル王国の上流貴族は、家名に長音を使う。これは、カーライルという国名が長音を含んでいることに由来する。
 その関係で、近年においては、子供の名前にも長音を入れる慣習が根付いている。テレサではなくテレーサ、クリスティンではなくクリスティーン、と名付けるのである。

 オリヴィアの両親は娘の名前に長音を使わなかった。本来ならオリーヴィアと名付けるところを、オリヴィアとした。
 貴族社会の傍流に追いやられたことを、自分たちの方から認めてしまったのだ。

 オリヴィアには理解できないことだった。
 零落れたと言っても、伯爵家であることは変わらないはず。長音の使用を自主的に控えるだなんて、上流貴族としての矜持はどこへ行ったのか。
 物心付いてからこれまで、どれほど両親に問いただしたか分からない。

 オリヴィアの父である伯爵家当主は、零落れた直後こそ復権に燃えていたが、恵まれた環境で安穏と育ってきた彼に、逆境を跳ね返すだけの力はなかった。
 親しく付き合ってきた貴族からも見放されたことが分かると、彼の心は容易く折れてしまった。

 残った領地で静かに暮らすことしか両親の頭にはない。
 幼い頃にそう悟ったオリヴィアは、自らの手で伯爵家を再興しようと考えた。
 全くの不可能とは言えない。役人として栄達すればそれは叶う。
 もちろん、正攻法では難しい。社交界から弾かれたエアハート伯爵家の娘が、上流貴族を中心とした政治の世界で、まともに重用されるはずもない。
 そこでオリヴィアは、第二王子エルバートに近付いたのだった。

 エルバートの兄である第一王子に取り入らなかった理由は、複数ある。

 まず、第一王子が有能すぎること。
 オリヴィアは、地位と権力を得るだけでなく、自らの後ろ盾を思いのままに動かすことまで視野に入れていた。
 将来 国王になる男を操ることができれば、国を支配したも同然となる。没落貴族の娘でしかないオリヴィアが望めるものとしては、最高の形であろう。
 そこまで実現するためには、隙のある男の方が都合が良い。

 第一王子を敬遠したもうひとつの理由に、彼の側近がすでに充実していたことが挙げられる。
 これまで公私ともに彼を支えてきた有力諸侯に割って入ろうとすれば、必ず軋轢が生まれる。
 その点、弟のエルバートは問題が少なかった。
 まともな後継者候補と見られていない彼にいくら接近しようと、反感を抱かれることはあまりない。

 しかも、怠惰な駄目王子と噂される彼なら、さぞ操りやすいことだろう。
 王子が無能者であれば、王位継承権争いは不利になるが、オリヴィアからすれば大した問題ではなかった。
 時機がくれば、私が権謀術数を尽くして、彼を押し立てていけば良い。私にはそれだけの能力がある。
 オリヴィアはそう信じていた。

 エルバートが女好きであることも、オリヴィアにとっては好材料だった。
 彼が貴族令嬢を次から次へと寝室に誘い込んでいることが分かった時、潔癖の傾向があるオリヴィアは嫌悪感を抱いたが、同時に、これなら与しやすいとも思った。
 幸いにもオリヴィアは容姿に恵まれていた。整った顔立ちはもちろん、流れるように鮮やかな金髪は、好色な男たちの目を常に引き付けてきた。
 己の美貌を自覚しているオリヴィアは、膝に届くまで髪を伸ばし、栄達の道具とした。

 初めてエルバートに身体を捧げた時は処女だった。全身を強張らせ、小さく震えていたのは、今から三年ほど前のことである。
 好きでもない男に身体をまさぐられるのは屈辱の極みだったが、オリヴィアは後悔しなかった。破瓜の痛みに顔を歪めていた時でさえ、つらいとは思っても、やめてほしいとは思わなかった。
 どんな苦痛も、栄転に繋がる道なのだと思えば、耐えることができた。
 オリヴィアは、貴族としての誇りを持った女であり、身体を売ることへの抵抗感は人並み以上に大きかったが、彼女の権力欲は、それを遙かに越えて強かった。

 伯爵家の令嬢でありながら、長音のない名前を授かったことは、彼女の精神形成に多大な影響を与えた。
 加えて、幼い頃から聞かされてきた両親の愚痴も大きかった。
 貴族社会に裏切られたエアハート伯爵は、恨みつらみを周囲にこぼし続けた。彼の身近に居た幼少のオリヴィアさえもその例外ではなかった。
 貴族夫人の輪から外されてしまった母も同様だった。こちらは恨みよりも未練の方が強く、言葉を覚えたばかりのオリヴィアに泣き言を吐き続けた。
 鬱屈した環境で育ってきたオリヴィアが両親に反発し、自身の栄達を望むようになったのは、自然の成り行きであったと言える。

 エルバートの寵愛を受けたオリヴィアは、彼の側近として宮廷行事の雑務処理を担うようになった。
 重要な地位ではないが、今のところ、野心に見合った仕事ぶりを示している。

「エルバート様」
 オリヴィアは椅子から立ち上がった。静かな動きでエルバートに近付き、寝台の縁に腰を下ろす。
「私にひとつ案がありますわ。聞いていただけますか?」
「聞くだけならな」
「では提案なのですが」
 少しだけ間を置いてからオリヴィアは言った。
「和平の使者を送りましょう」

「ん?」
 エルバートが怪訝な表情を浮かべる。
「停戦の打診なんて、何度もやっただろ。奴ら、すべての領地を差し出せとしか言ってこねえし、交渉の余地があるとは思えないんだが」
「ええ。ですから、すべての領地を差し出しましょう」
「それって降伏じゃね?」
「一言で表すとそうなりますわね」
「まあ、戦わずに話をつけるには、そうするしかないよな。つっても、留守番の俺が勝手に降伏するっていうのは、ちょっとなぁ」
 後で面倒なことになるのは目に見えてるだろ、とエルバートは付け加えた。

「ですが、我が軍の主力は国王陛下に率いられ、異国の地にありますわ。そのため、こちらが動かせる艦艇はたったの7隻。これに対して、敵軍は30隻ほどの規模であるという報告が上がっております。勝ち目はありません」
「30隻……」
「偵察部隊からの報告です。多少の誤差はあるかもしれませんが、おおよそ間違ってはいないかと」
「ま、そうだな」
 噂によると、50隻からなる大艦隊が攻め寄せているとのことだが、さすがにこれは誇張が入っていると思われる。
 敵軍の流言だろう、とエルバートは判断していた。

 実情よりも多めの兵数を喧伝して相手の動揺を誘うのは戦争の常套手段である。
 不正確な情報であっても、他に情勢を知る術のない民衆は、案外簡単に信じてしまう。民衆の困惑は王国の不安定化に繋がる。
 歴史上、噂話で国家が揺らいだ例はいくつもある。
 実情を把握できる立場の軍幹部にしたところで、一度でも50隻と聞いてしまうと、言葉の響きが耳に残ってしまい、実際には30隻なのだと後から判明しても、最初に与えられた印象が頭の片隅に居座り続ける。
 結果、必要以上に警戒してしまう。
 そうした敵軍の思惑を差し引いて考えれば、実数30隻という偵察の報告は妥当な線だろう。

 7隻対30隻。
 兵数で言えば、1400人対6000人。
 軍艦1隻に200人の兵が乗っている前提での計算だが、これはどこの国でもさほど変わらない。多少の幅はあるにしろ、おおよその兵数はそんなところである。

「やはり早期和平以外の道はないでしょう、エルバート様」
「和平じゃなくて降伏だろ」
「降伏しても、エルバート様が敵国に忠誠を誓えば、そこそこの処遇をもって迎えられるはずですわ」
「そこそこねぇ」
「であるならば、隣国で確固とした地位を築くことも、充分に可能ではありませんか」
「そんなに簡単な話かぁ?」
 エルバートは疑わしげな声を上げながらも考え込み始めた。

 成算ありと見たオリヴィアはさらに言い募る。
「これまで隣国は、屈服させた国に対して極めて粗略な扱いをしてきましたが、今回ばかりはそうもいかないでしょう。隣国は、近いうちに戻ってくる我が軍の主力と、必ず戦わなければなりません。ですから、我がカーライル王国の占領は、犠牲を抑えつつ、なるべく早く済ませてしまいたいはずです。我が国が早い段階で彼らの要求を丸呑みするのであれば、向こうとしても助かることでしょう。悪い扱いを受けることはありませんわ」
「…………」
「全面降伏をしても、おそらくエルバート様は隣国の重臣として迎えられるでしょう」

「隣国の重臣って言うけどさ」
 エルバートは仰向けになり、枕に勢い良く頭を沈めた。天井を眺めながら続ける。
「俺としては、できれば要職には就かず、隠居したいんだよな」
「隠居、ですか」
「降伏して隣国の家臣になったら、遠征から帰ってくる我が軍主力との戦いで、矢面に立たされることになりそうだろ?」
「可能性はありますわね」
「いや、きっとそうなる。まずいだろ、それは。老いぼれた父上ならともかく、兄上の指揮する軍とまともにやり合って、無事に済むわけがない」

「エルバート様ならばその任にも堪えましょう。あなた様にはそれだけの才覚があると私は思いますわ」
「アホか」
 自分に対する高評価をエルバートは一笑に付した。
「俺は能無しの駄目王子だぞ。みんな影でそう言ってる。お前だって、そういう陰口を耳にしたのは、一度や二度じゃないはずだ」
「能無しというのは、この国の留守を預かっている軍人たちのことでしょう。平時には威勢の良いことばかり言っているくせに、カーライル王国の一大事においては狼狽するばかりで、何もできないではありませんか。そんな輩の言ったことに耳を傾ける価値があるとは思えません」

 オリヴィアは微笑を作った。
「エルバート様が優れた才能の持ち主であることを、私は知っていますわ」
「…………」
 嘘だな、とエルバートは思った。どうせ、俺を思い通りに操るための甘言だろう。早期降伏実現の立役者になりたいのだ、オリヴィアは。その実績をもって隣国で栄達するつもりに違いない。

 そこまで分かっていても、エルバートは、彼女の意見を即座に却下する気にはなれなかった。
 オリヴィアの思惑はともかく、言っていることは間違っていない。
 劣勢を承知で大軍に挑むよりも、さっさと白旗を揚げてしまった方が利口だろう。なにしろ7隻対30隻の戦いなのだ。降伏して隣国の先陣となり、我が国の遠征軍と戦うことになった方が、まだいくらか救われた状況だと言える。

 とはいえ。
 そのような重大極まる決断をすること自体、エルバートには面倒に思えて仕方がないのだった。

――――

「やっぱりまだ居た!」
 いきなり扉が開かれ、エルバートは思考の中断を余儀なくされた。
「ちょっとエル! 早く起きなさいよ!」
 世話役を務めているラナが、大声を上げながら部屋に踏み入ってくる。

 王族に仕える世話役は中年貴族が多いが、ラナはまだ10代の少女に過ぎない。そのうえ平民の生まれである。
 エルバートが国王から見放されている以上、彼の世話役も重要視されていないとはいえ、異例の人選だった。

「あっ」
 寝台に腰掛けたまま素知らぬ顔をしているオリヴィアを見た途端、ラナの頬が赤くなった。この部屋で行われていたことを想像してしまったのだ。
 エルバートに悪びれた様子はない。自然とラナの目付きがきつくなる。

「カーライル王国存亡の危機なんだから、もう少し緊張感を持ちなさいよっ!」
「持ってるって。今も降伏するかどうか考えてたところだし」
「降伏!? なに馬鹿なこと言ってるの!」
「やっぱり駄目か? 降伏すれば話は早いんだけどな」

「あのねえ……」
 ラナは大袈裟に肩を落として見せた。
「駄目に決まってるじゃないの。処刑は免れるでしょうけれど、使い捨ての駒として、戦死するまで利用されるだけよ。あんただって、そんなこと分かってるでしょ。どのみち戦うしかないのだから、いま戦いなさいよ」
「やっぱ、そういう話になるよなぁ」
「分かってるのなら、ほら起きてっ」
「はいはい」
 エルバートは渋々と上半身を起こした。

 ラナは幼少の頃よりエルバートの世話役として仕えてきた。身の回りの雑用をこなすのが務めだが、エルバートの幼友達としての役割も担っている。
 世話役には高度な知性が求められ、選定には筆記による公募が行われた。その際に身分が問われなかったのは、現国王の意向だった。
 エルバートの父である国王は、宮廷においても軍においても、平民の登用を積極的に推し進め、国内外から進歩派と称されている。

 それでもエルバートは、平民の少女が世話役に選ばれたと聞いて驚いた。
 平民の登用を快く思わない貴族は多い。裏から手を回して妨害することなど珍しくはない。
 試験が公正に行われたことをエルバートは意外に思ったのである。
 そして次に、内幕を想像して小さく笑った。
 貴族たちは、平民が選定されるとは思わず、試験に介入する必要はないと判断してしまったのだろう。結果を知った時はさぞ動揺したに違いない。あらかじめこうなることが分かっていたら、事前になんらかの工作をしていたはずだ。
 建前とはいえ平民にも試験を受けさせた以上、決まってしまったものを覆すことはさすがにできない。

 貴族連中に見事な不意打ちを食らわせた少女にエルバートは興味をそそられた。
 自分の能力に絶対の自信を持ち傲慢な性格をしているのだろう、と見当を付けていたが、初めて顔を合わせた時、その予想は間違いであることが分かった。
「お、お初にお目に掛かります、エルバート様……」
 ラナは、自信に満ち溢れた表情などではなく、緊張に固まった顔でエルバートの前に姿を現したのだった。
 小さな身体を縮こまらせている姿は、エルバートの隣に立っていた年長の従者を失笑させた。
 類い希な知性を有してはいても、彼女の精神性は幼い年相応のものでしかなかったのである。
 付き合っているうちにラナの緊張は解けていき、エルバートに対して物怖じしない態度で接するようにもなったが、彼女の内心が変わることはやはりなかった。
 ラナが無能者を嘲る姿など、エルバートは一度として見たことがない。傲慢な性格とは程遠かった。

 貴族の場合、何かひとつでも秀でたものがあれば、世の中をみくびるようになる。高圧的な態度に出たり、分不相応な野心を抱いたりするものだ。
 ラナの場合は違った。
 彼女が純粋な心を保っているのは平民ゆえなのだろう、とエルバートは思っていた。
 その考えも、のちに改まった。

 10歳になったエルバートは、教育係の目を逃れて宮廷を抜け出すようになり、街で平民と接することが多くなった。
 そこで、平民にも様々なタイプの人間が居ることを学んだ。
 貧しい農家の生まれであっても、貴族のように不遜な者は少なからず居た。

 結局のところ、ラナが他人を見下したりしないのは、彼女自身の資質によるところが大きいのだ。
 王宮という特殊な場所からほとんど出たことがなかったせいで、そんな当たり前のことにも気付かなかったのである。

 街では様々な人々から話を聞いた。同じ質問をしたからといって、同じ答えが返ってくるとは限らなかった。
 貴族に対する考え方ひとつ取っても、全く統一されていなかった。不平等な身分制度に不満を持っている者も居れば、貴族社会に純粋に憧れている者も居る。似たような境遇で育ってきた者同士であっても、見解は人によって異なった。
 貴族を妬んでいる者たちを集めたところで、別の事柄、たとえば王国そのものへの忠誠心はどうかと聞くと、反応はやはり千差万別だった。

 人というのは面白いものだ。
 わずか10歳の王子は、そのような考えを持つに至った。
 王侯貴族に囲まれて育ってきたエルバートには、個別の考えを持つ平民との接触が、己の価値観を引っ繰り返されるほどの出来事だったのである。

 以降もエルバートは積極的に宮廷を抜け出し、時には数ヶ月もかけて国内の島々を巡った。
 命の危険を伴うこともあったが、相応の価値はあった。無数の出会いにより、人間観察の機会を存分に得られた。
 もっとも、城を抜け出すのは、単に遊び回るためでもあったが。

 お忍びの外出にはラナが必ず付いてきた。
 王子が城を抜け出したとなれば、世話係のラナが責任を追及される。にもかかわらず、彼女はエルバートを止めようとしたことがなかった。
 勤勉でないのは困ったことだが、民と接するのは有意義なことだ。ラナはそう判断していたのである。

 当時エルバートは深く考えていなかったが、自分の居ないところでラナが叱責を受けていることは察していた。
 ラナはそのことをエルバートに訴えたりしなかった。だからエルバートの方も、この件に言及したことはない。

 世話役は一年ごとに選び直される。
 二度目の選定では、差別意識の強い貴族が本腰を入れて試験に横槍を入れようとしてきたが、エルバートは自ら進んで試験の監視役になり、宮廷の影響力を排除した。
 怠惰なエルバートには極めて珍しいことだった。

 純粋な選抜となれば結果は決まっていた。ラナの知識量に並び得る者など同年代には存在しない。
 彼女は世話役の選定を毎年突破して、エルバートの隣に自分の席を確保し続けてきた。

「早く着替えてよね。あんたのことをみんなが待ってるんだから」
「やれやれ、しょうがねえな」
 エルバートは嫌々ながら衣服を脱ぎ始めた。

 着替えを手伝いながらラナは言う。
「軍議では、篭城するべきだという意見が大勢を占めているわ。でも、ここは海戦を挑むべきでしょう? だからエル、あんたにはまず艦長たちを説き伏せてもらわないと」
「そんな面倒臭いことを俺にやらせるつもりなのかよ……」
「本当に篭城することになるよりは良いでしょう」
「まあ、いつ戻ってくるか分からない遠征軍をあてにして篭城なんかしても、先は見えてるよな。ならいっそ、こちらから打って出た方がいい」
「なにより、一時的にでも敵国に領地を渡したら、必ず略奪が起きるわ。そんな事態は可能な限り避けるべきよ。そのための軍でしょう。でも艦長たちは敵を恐れて、積極的に動く気にはなれないでいるの」
「戦力差を考えれば自然な反応ってもんだろ。つっても、この島はあまり防衛には向いてないし、他に手頃な島も無いしで、篭城したって長くは保たないんだけどな」
「防衛に向いている島は国境付近にいくつかあったけど、もう敵の手に落ちているからね。お城に篭もって震えていても問題は解決しないのだから、艦隊を率いて敵を追い返すしかないわ。勝ち目がほぼないことには違いないけれど、短期に決着がつくのだから、あんた好みの戦略でもあるでしょ」

 エルバートは着替えを終えると頭を掻いた。寝癖の残った髪がさらに乱れる。
「んー、やっぱり降伏した方がいいんじゃね?」
「またすぐそうやって投げ出そうとする!」
「今回ばかりは誰でも嫌になる状況だと思うが……」

「だからどうだって言うのよ。たまには困難なことに立ち向かってみたらどうなの? 昔はそんなんじゃなかったのに。あんたがその気になれば、何だってできるはずよ」
「俺が王子だから?」
「それだけじゃないわ。普通の人なら簡単にはできないようなことでも、あんたは軽々とこなせてしまう。昔から、何をしたってそうだったでしょ」
「…………」
「誰もが羨むような才能をあんたは持っているのよ。あんたも本当は思ってるんでしょ。自分は他の人とは違うって。私もそう思う。昔あんたが自分で言っていたように、その気になれば、世界を手に入れることだって不可能じゃないはずよ」
「子供の時の軽口をここで持ち出すなよ。今は、世界を手に入れるどころか、王国滅亡の危機に瀕してるじゃねえか。そもそも王位は兄上が継ぐことになってるし」
「あんたのお兄様は確かに優秀だけれど、あんたが劣っているとは決して思わないわ」
 本心からの言葉だった。幼い頃から一緒に過ごしてきたラナにはエルバートの才気がよく分かっている。
 賛同する者だって昔は少なくなかった。彼が軍務をさぼるようになってからは誰も認めなくなってしまったが。

 エルバートがこれほど腑抜けてしまった理由は見当がついていた。
 『兄と比べられるのが嫌で同じ土俵に立とうとしない』などと宮廷では噂されているが、ラナの見解は違う。
 彼は子供なのだ。王族の責務を果たすべき年齢に達したことを認めたがらず、まだまだ遊び足りないと駄々をこねているに過ぎない。
 本人の口から聞いたわけではないが、ラナは確信していた。

 エルバートの初陣は13歳の時だった。
 王族である彼は、慣例通りにいきなり軍艦1隻を与えられ、艦長(少佐)として戦場に出た。
 むろん、実質的に船を動かすのは、エルバートを補佐する立場にある経験豊富な部下たちである。
 初陣のエルバートは、用意された艦長用の椅子にただ座っているだけで終わった。
 幾度かの海賊討伐を経て、部下から艦の指揮を任されるようになっても、初陣の時と同じように座っているだけだった。

 戦闘が始まると、彼は一言だけ口にした。
「副長、後は任せる」
 敵味方が激しい砲撃戦を繰り広げている最中でさえエルバートは何もしなかった。困惑する部下の視線を気にもせず、椅子に背を預けたまま、つまらなさそうな顔をして戦況を眺め続けた。
 戦闘が終わると、彼はやはり一言だけ発した。
「帰投する」

 そんな中、自ら動いたことが一度だけあった。軍艦2隻で臨んだ辺境紛争でのことだった。
 当初、相手は軍艦1隻のみだと思われていたが、敵の援軍が駆け付けてきたため、合計3隻との戦闘を余儀なくされた。2対3という不利な状況ではエルバートもさすがに黙っていられず、艦を指揮して戦った。
 結果は大勝だった。

 国王をはじめとした宮廷は、第二王子に対する評価を改めた。
 しかしエルバートは、次の海戦から再び傍観に徹した。
 『またいつもの気紛れが始まったか』と周囲は呆れ、見事な功績も偶然の産物だったと結論付けられた。

 そんなことはない、とラナは思っている。あれこそがエル本来の姿なのだ。いつかはそれが明らかになるはず……。

「いい加減になさい、世話係風情が」
 エルバートとラナの間を、オリヴィアの冷たい声が横切った。
 ふたりの遣り取りをオリヴィアは黙って聞いていたが、いつまでも静観してはいられなかった。
 貴族であることに誇りを持っているオリヴィアにとって、身分をわきまえない平民ほど不愉快な存在はない。
 しかも、ラナのせいで、早期降伏の可能性がほとんど消えてしまった。もう少し時間があれば、エルバートを説き伏せることができたというのに、世話役ごときが台無しにしたのだ。

 オリヴィアはラナを睨み付けた。
「カーライル王国の第二王子エルバート殿下に対して、これ以上の無礼な物言いは許さないわ。そもそも、平民が王族のお言葉を賜る時は、地面に膝を着いて頭を垂れるべきでしょう」
 威圧的な声だった。
 ラナは表情を硬くしている。
「さあ、跪きなさい」
「オリヴィア様……」
「まさか断ると言うつもりではないでしょうね。少しばかりエルバート様に目を掛けられているからといって、思い上がりも甚だしいわ。膝を着きなさい」

 見かねたエルバートが彼女の話を遮る。
「もういいだろ、オリヴィア」
「いえ、エルバート様。私は常々思っておりました。ただの世話係に情を移しすぎです。平民を甘やかしても、良いことなんて何もありません。付け上がるばかりですわ」
 『現にこうしてカーライル軍の戦略に口を出している』という言葉をオリヴィアは寸前で止めた。
 自分も同じであることに気付いたからだった。降伏と海戦。勧めた内容に差異こそあれ、越権行為に違いはない。
 だからといって、ラナに対する不快感が拭えることはなかったが。

「いいから、お前は下がれ。軍議に行かなくちゃならん」
「ですが――」
「オリヴィア」
「……失礼致します」
 不満はあったが、これ以上エルバートの心証を悪くするわけにもいかず、オリヴィアは一礼して部屋を出た。

――――

 扉が完全に閉まるのを見届けてからエルバートは慌てて言った。
「ま、まあ、あれだな、あんまり気にすんなよ、うん」
「慣れてるから平気」
 幼馴染みの不器用な気遣いにラナは表情を緩ませた。

「こんなの、よくあることよ。宮中の女は身分の差を何よりも重視するからね。あんたの前でオリヴィア様があそこまで言うとは思わなかったけれど」
「確かに。あいつがあからさまに感情を露わにするのは珍しい」
「あんたが目の前に居るから横槍を入れられることはない。私のそういう計算にオリヴィア様は気付いたのかもしれないわね。そこが癇に障ったとか」
「考えすぎじゃねえの?」
 そう言いながらも、有り得ないことではないな、とエルバートは思った。
 聡明なオリヴィアのことだから、些細な表情の変化から相手の心理を読み解くのも難しくはないだろう。

 オリヴィアは、エルバートに接触するより前から、両親の助けもなしに社交界へ身を投じ、貴族社会の大人たちと渡り合ってきたのだ。
 没落した伯爵家の娘として見下されながら。

 彼女は人脈を必要としていたのだろうが、それよりも、宮廷貴族に揉まれて自分自身を研磨することが最大の目的だったのではないか、とエルバートは見ている。
 幼少時から大人の駆け引きに慣れ親しんできた彼女が、頭の中でどのような思考を巡らせているのか。今までいい加減に生きてきたエルバートには想像すらできないことだった。
 であるからこそ、オリヴィア・エアハートという女は、興味深い観察対象となり得るのだが。

「そんなことより、エル。早く軍議に行くよ」
「……ああ」
 できればこのまま部屋に留まっていたかったが、まさか本当にずっと引き篭もっているわけにもいかない。
 エルバートはラナに急かされながら自室を後にした。

――――

 廊下に出た矢先、公爵令嬢マーガレットに出くわした。
 12歳になったばかりの令嬢は、動揺した顔でラナとエルバートを見上げた。

「エル兄様、あの……」
 マーガレットは声を詰まらせた。
 エルバートを『エル兄様』と呼んでいるが、血の繋がった兄妹というわけではない。彼女の母親は先代の王の娘であり、つまりマーガレットは、エルバートの従妹にあたる。
 物心つく前から可愛がられてきた彼女はエルバートによく懐き、親しみを込めて『エル兄様』と呼んでいるのだった。

「どうした、マーガレット。わざわざ俺に会いに来てくれたのか?」
 優しく語りかけるエルバートに、マーガレットは小さな声で答える。
「う、うん。なんだか不安で。みんな恐い顔をしているから」
「そっか」
 エルバートは彼女の心情を察した。きっと、これからどうなるのか心配でたまらなくなり、とにかく誰かと話をしたくてここまでやって来たのだ。

「お祖父様もどこに居るのか分からなくて」
「…………」
 マーガレットの祖父である公爵家当主は、孫娘を溺愛していることで有名だが、さすがにこの状況だと話は別のようだった。今は、自領の安堵を求めて、隣国の有力者に働き掛けている最中なのだろう。

「エル兄様のご迷惑になるかもしれないとは思ったけれど、私、どうしたら良いか分からなくて」
「俺なら構わないさ。でも大人は今ちょっと忙しいんだよ。すぐに終わると思うから、安心してくれ」
「ほんとう?」
「ああ。俺がなんとかしてやるから」
 エルバートがそう言うと、横に居るラナが口を挟んできた。
「その言葉、嘘じゃないでしょうね」
「うるせえな。ちょっと黙っててくれ」
 ラナの眉が吊り上がったような気がしたが、エルバートは構わず続けた。
「大丈夫だ、マーガレット。俺に任せておけ」
 言いながら、小さな頭を撫でてやる。

「あ、兄様……」
「ちょっと行ってくるな。マーガレットを不安にさせる種を摘んできてやるから」
「うん」
 マーガレットは表情を和らげ、こくこくと何度も頷いた。

「では私たちはこれで失礼します、マーガレット様」
 去り際にラナは丁寧に頭を下げる。

「いってらっしゃい、エル兄様、ラナ姉様」
 魔性の女として歴史に名を残すことになる少女は、無邪気に手を振ってふたりを見送った。

――――

 ラナは早足で廊下を突き進む。
 彼女が急ぎ足なのは、少しでも早く会議所に着きたいからだろうか。あるいは、王国の危機的状況に対する焦燥感のせいか。
 特に意味もなくそんなことを考えながら、エルバートはラナの隣を半歩遅れてついていく。

「エル、軍議の前に確認しておきたいんだけど、あんたは現状をどれくらい把握してるの?」
「軍艦30隻に攻め込まれていて、こっちが迎撃に使えるのは7隻しかない、とか。さっきオリヴィアに聞いた話なんだが。つか、これ本当か? もう少し兵力が残っているんじゃないかと思っていたんだけどな」

「実際にはまだ何隻も軍艦があるけれど、国内に点在している島々から動かすことができないの。飛竜隊も主要な島からは引き抜けない。我が国に攻め寄せてくる可能性のある国は、他にもあるからね。王都周辺の島から4隻を引っ張ってきた分で精一杯よ。海賊への備えも怠るわけにはいかないし」
「海賊? 国家存亡の危機だってのに?」
「国の混乱に乗じて海賊が動き出さないとも限らないでしょ。だから、オリヴィア様の言っていることは正しいわ」
「ふうん……」

 ラナは歩きながら書類を確認している。
「そういうわけで、こちらの戦力は軍艦7隻のみね。そのうち3隻は、王都防衛のために駐留していた艦隊よ」
「王都防衛って、ようするに、念のために置いてただけだろ。王都まで攻め込まれることがあるとしたら、もうほとんど勝負が付いてる状況だろうからな。今がまさにそうなんだけど。あ、海賊対策ってのもあるか。けど海賊なんて辺境で活動するだけで、王国の首都まで来ることはないんじゃね? 王都駐留艦隊って働いたことはあるのかよ」
「実戦経験のある兵は少ないわ。王都周辺から集めた4隻も、似たようなものでしょうね。でも安心して。魔術士はちゃんと配備されているから」
「んなこと、敵だって同じだろ。なんか、聞けば聞くほど降伏案が魅力的に思えてきたんだが」
「あんた、さっきマーガレット様に言ったことを忘れたの? 俺がなんとかしてやるーっ、みたいなことを言ってたでしょう。少しはやる気になったんじゃないの?」
 ラナが探るような視線を向けてくる。
「いや……」
 エルバートは目を逸らした。
「あれはなんて言うか、方便だよ。優しい嘘ってやつだ。あそこで俺がああ言わなかったら、マーガレットが余計 不安になるだろ」
「まったくもうっ」

「仮に降伏したとして、問題なのは、マーガレットの処遇がどうなるかなんだよな」
「シェフィールド公爵家は存続できると思うわ。領地は半減するかもしれないけれど、あの家は諸外国の王侯貴族に知り合いが多いから、その繋がりを駆使すれば、生き残るくらいのことはできるでしょう。今も色々と動いているようだしね。だけど、シェフィールド公爵家が無事だとしても、マーガレット様も無事とは限らない。人質として要求される可能性は低くないはず」
「……だよな」
「シェフィールド公爵家の現当主は、孫娘のマーガレット様を相当に可愛がっているようだけど、だからといって、最優先で守ってくれるわけでもないみたいね。現に、この状況でマーガレット様を放置しているし……」
「家の存続がマーガレットを守ることにも繋がるんだから、正しい判断だと思うがな」

「とにかく、全面降伏なんてしたら、生きるも死ぬも敵国の思惑次第でしょう。侵略軍を撃退しない限り、身の保証なんて有り得ないのよ、結局のところ」
「つったって、現実問題、厳しいよな。父上が率いていった主力艦隊があれば、話も違ってくるんだが」
「遠征が行われていなかったら、そもそも隣国に攻め込まれることもなかったでしょう。少なくとも、この時期にはね」

「あの遠征が成功するとは思えないし、父上も馬鹿なことをしてくれたよ」
「自分の親を悪く言うもんじゃないわ。この国の王様なのだから、なおさらね」
「……そうだな」

 エルバートの父であるシーザー・カーライルは、平民を積極的に登用する進歩派として名高いが、自他共に認める野心家でもあった。
 若くして王となった彼は、世界に覇を唱えるべく領土拡張に邁進してきた。彼の代でカーライル王国は着実に力を増した。
 しかしシーザー王は満足しなかった。
 カーライルを更なる強国に。欲望は大きくなるばかりで、次第に迷走していった。無闇に出兵を行い、敗戦が目立ち始めた。

 エルバートの兄である第一王子は、父を諫めようとせず、むしろ積極的に賛同してきた。
 今回の遠征も、無謀であることが分かっていながら、反対することなく随行していった。

 ついていけないな、とエルバートは思う。
 兄上は権力欲に取り憑かれているのではないだろうか。すでに次期国王の座は決まっているようなものなのに、危険を冒してまで父上に忠誠を示そうとするなんて、あまりにも馬鹿げている。
 まあ、本人の立場からすれば、足場を固めるのは当然のことかもしれないが……。

「にしても、あれだな。名前が良くねえよな」
「なんのことよ?」
「だから、名前だよ。敵国の。国名。ほら、ベリチュなんとかって言ったろ」
「ベリチュコフ王国ね」
「そう、ベリチュコフ王国。呼びにくいだろ? いちいち発音しなきゃならんこっちのことも考えて欲しいよな。なんでそんな国が隣にあるんだよ」
「カーライル王国と比べれば呼びにくいかもしれないわね。私としては、そんなどうでも良いことより、『なんであんな軍事大国が隣にあるんだ』って嘆いて欲しいところなんだけど」
「…………」

 しばらく歩いてからエルバートは再び口を開いた。
「つーかさぁ」
「今度はなによ?」
「こっちの数が少ないとか、敵の数が多いとか、問題は色々あるんだけどさ、そん中でも一番大きいのは、やっぱ、侵略軍の総司令官が女王レイラだってことじゃね?」
「そうね、確かに」
 ラナは頷いた。深刻な表情だった。
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